直系その1・福来亭
小さい写真じゃが、燕背脂の元祖・福来亭の「中華そば」は、こんな感じじゃ。
隣の漬物はサービスで、付いてこないときもあったのう。
日本蕎麦に漬物がつくのはよくアルけど、ラーメンには珍しいかもアル。
ラーメンか‥‥。「ラーメン」と呼ぶとどうも違和感があるな。これはやはり「中華そば」と呼ぶべき一品じゃと思う。
これは福来亭に限らんが、燕背脂はメニュー上の表記も「中華そば」になっておることが多いんじゃ。略して「中華」とか「そば」と呼ばれることも多いな。
麺の太さ的には、そばじゃなくてウドンぽいある(笑)
わしの知り合いに、NHKのローカルニュースで生前の徐昌星さんにインタビューしていたのを見たことがある、という奴がおってな。そのニュースでは、徐さんは「俺のそば」と言っとったそうなんじゃ。「中華」は略称じゃが、「そば」は中国語の「麺」に対応する言葉で、略称じゃないのかも知らんな。
中国語の拉麺は手延べ麺の意味アルから、もしかしたら徐さんも「ラーメン」と呼ぶのに違和感があったかもしれないアルね。
ところで、徐さんが燕市へ来たのは昭和7年から9年ごろのことらしい。最初期は屋台で火力も弱かったから、細麺だったんだそうじゃ。それがなぜ太麺になったのかというと‥‥
それも調べたから任せるアル! 中国誇らしい!
燕市は金属加工を営む町工場がたくさんあって、「洋食器の町」と呼ばれるデスね。高度成長期は工場がフル稼働したから、出前で夕食を済ませて残業することが多くて、福来亭でも毎晩100食200食の出前は当たり前田のクラッカー、だったらしいアル。
おお、時代背景にマッチしたギャグじゃな。
出前に時間がかればスープは冷めるし麺はのびちゃうアル。そこで、冷めにくくするために背脂でスープの表面にフタをし、のびにくくするために極太麺を使う、となっていったそうアル。
うむ。つまり、燕背脂は「燕の地場産業が育てた地域密着型ラーメン」じゃ。三条を付けずに呼びたいのはそれもあってのことなんじゃよ。三条市にも福来亭の流れを汲むお店はあるが、燕市の地域特性があってこそのラーメンと思うのじゃ。
スープの味付けも、工員さんは汗をかくのでしょっぱめが好まれた結果だと聞いておる。塩分補給じゃな。
でもネ、「背脂は戦前からあった」という資料も見つけたアルよ。
これは、矛盾しない解釈が可能だと思うのじゃ。背脂は、しょっぱさとのバランスを取るために、甘みやまろやかさを加える意味で戦前から使われていて、燕の町工場がフル稼働した高度成長期になると、太麺化が進むと同時に背脂の保温性の高さが再発見され、背脂にも出前対策としての意味が加わった、ということではないかな。
他には、終戦後にエビ天をラーメンにのせたのが背脂ラーメンの原型、という話も見つけたアル。あと、薬味はもともと長ネギで、不作で高騰した年にタマネギで代用してみたら美味しくて定着したのだそうですヨ。
そんな福来亭ですが、2007年に惜しまれつつも閉店してしまいましたアル。とっても残念ですネ‥‥。さめざめ(泣)
現在でも営業しているのが、福来亭の姉妹店である「杭州飯店」じゃな。
微力ながら小生の情報が役に立ち光栄です。さて小生が選ぶ背油ベスト10ですが
1、初代めんきち 2、燕宮川食堂 3、吉乃や 4、ライオン食堂 5、大むら支店
6、だんち食堂 7、やすどん 8、三条中華亭 9、政 10、やまがみ食堂です。杭州や安福などは、美味いかですが値段が、んん~ですかね。今から約2年半位でしたかマサさんのブログを見てこれは美味いと感じて即行ったのが宮川さんです。杭州が確か750円の時になんと500円で食べられだしが良く効いて煮干しプラス良質のたぶんこんぶやかつおだしがほのかにしました。麺も多く具体的には三条しゃがらの大盛り位は有ります。最初食べた時は超感動でした。値段安くダシもよく効いていて麺の量も多くまだ隠れた名店が有ったもんだと思いました。現在は600円ですが燕エリアの価格帯からすればまだまだ安くて量も多く美味いです。宮川さんは大油でと言って下さい。先般のプラント内にある見附ブラック同様検証して頂ければ幸いと思います。はい。
この度はご協力いただきましてありがとうございました。諸説あり、全く違う説もあるので正解かどうかわかりませんが、自分なりのひとつの区切りになりました。
燕の「宮川」は、何度かお店の前を通ったことはあるのですが、フラれていました。ぜひ食べてみたいです。(^^ゞ
ある信頼できる情報によれば二郎も福来亭から背脂を学んだとか
びっくりぽん! 京都の新福菜館と繋がったのには、じぇじぇじぇでしたが、二郎と繋がってもおかしくない気がしてきました。
そうなると・・・東京の背脂「ホープ軒」とか、環七の「土佐っ子」とかにもどこかで繋がるのかしら?
背脂皆兄弟! 背脂は世界を救うですね。
いやいや凄い! 感動すた♪
歴史的な記事です!
アブぺディアとして確立!(笑)
情報の吹き貯まりになるといいですね!(爆)
(勿論、いい意味でね♪)
そんな訳で・・・
昔・・・ 杭州の名刺に・・・
福来亭本店 杭州飯店とあると聞いた事があるような・・・(笑)
やはり・・・ 歴史を追いかけるのは・・・ 楽しいですね♪
アブぺディア(笑)。abupedia・・・募金でも募りましょうか? これがホントのオイルマネーですね。 名刺にも両店の名が刻まれていたとは・・・オイルショック!
いやはや、興味深く拝読させていただきました^^
特に各福来亭の関係性が今までよくわかっていなかったので、なんだかストンと腑に落ちた感じでスッキリです^^
油の家系図は資料的価値が高いと思いますw
調べれば調べるほど、全く違う説もあって、必ずしも全問正解ではないと思うのですが、ひとつの説として何かの参考にしていただければ・・・って感じです。(^^ゞ
キチンと背油ラーメンを食べた事が無いので、一度チャレンジしてみたい記事でしたぁ~♪
まぁ、胃の無い猿は速効やっつけられて、トイレから出れないんですが。(笑)(*´∀`)
油を採りたい時があるんッスヨ。
油を食べた後はお腹のケア・・・大事です。。。これが本当の「油断大敵」です。
大好きな「大盛り研究所!!」
いつも楽しみにしています。
が、今回は
やはりどうしても
違和感がありまして、、
コメントしてしまいます。。。
こかね食堂。
大好きなんです!!
苗字が
かねこ さんなので、ひっくり返して
「こかね」だそうです。
個人的な感覚ですが
行くときは
「背油を食いにいく」って感じでは
ないお店です。
逆に、昨日背油だったから
きょうは「こかね」行こっと、、って感じで
お邪魔しています。
実際魚介が弱いと思いますし
ラーメンマップでも
「鶏がらのみで」と有りますし。。
事実はどうか
次回取材してみようと思います!!
コメントありがとうございます。かねこをもじって「こかね食堂」・・・「こねか」ではないのがいいですね。(^^ゞ
情報ありがとうございます。 実は久しく行ってないので、記憶が曖昧でした。
メンマの感じとか、分水の中華亭の小油(油なしくらい?)に似ていたような覚えがあったのですが・・・薄っすら背脂な感じでしたよね。
もしかして、大油は存在しないのかもですね。背脂が少し浮いてると言うことは・・・豚も少し使用?
「鶏がらのみ?」・・・近々に確認に行きたいと思います。
いずれにせよ、ちょっと異色って感じで系譜に入るのは「ちょっと待った!」かもですね。
確か?焼きそばだったか、焼きめしだったかが、珍しくソース味だったような記憶も、かすかにあるのですが、記憶が曖昧です。
やっぱり、私も再調査してきま~す。\(^o^)/
杭州飯店で修業した店に十日町のたかみち(旧栄町のミミ)があります。
新潟日報のラーメン本に書いてありました。
コメントありがとうございます。十日町のたかみち・・・ありましたね。
ミミの時はよく行ってたのですが、十日町に移転してからはすっかりご無沙汰です。杭州飯店で修行されたということになれば、
直系の系譜に入れないといけませんね。
教えていただきありがとうございました。\(^o^)/
ちなみに、旧・栄町ミミの近くの佐助も好きだったのに・・・残念です。大肉(タイロー)ラーメン懐かしいです。
30年前くらい、まだ杭州飯店が「ラーメン屋」と言うよりは「中華料理屋」だったころ、杭州飯店の近所に住んでいた親戚宅の集まりで、杭州飯店の2階の広間を使い宴会をした記憶があります。
宴会は、中華料理のコースだったように思います。
当時はもう、現在のカタチの「中華そば」がありましたが、沢山ある中華料理のひとつで、今ほどの絶対的な看板メニューでは無かったような気がします。
当時、小学生だった頃の「初・杭州飯店」の記憶ででした(^_^;)
大切な思い出話をいただきありがとうございました。
中華料理屋さんとしての杭州飯店、とても良いお話だと思います。
ありがとうございました。(^^)/
新潟市南口の麺屋 忍はどういった扱いなのでしょう。
2012年あたりでは、関谷福来亭でノッポ君が忍風のラーメンにしようとしてた様です。
その後フトッチョ君が元のラーメンに戻していた様に思えます。
これ、すごく嬉しかったです。
関谷福来亭は関谷福来亭であって、忍じゃないんです。
忍のラーメン自体は好きなので、どんな系譜をたどってるか興味があります。
ちなみに忍の爺さんは関谷福来亭の先代に似てます。
コメントありがとうございます。 「麺屋 忍」は小針にあった時に一度行ったきりだったと思います。今は背脂麻婆麺が人気のようですね。燕背脂ラーメンとの関わりはわかりませんが関屋福来亭と関係性があったんですか?!
杭州飯店の店主のお姉さん?が福来亭をやってると昔聞いた事があります。
杭州飯店からの暖簾わけみたいですね。ゆえに杭州飯店が元祖だと思うのですが…
有名になった今の背脂乗せは出前用が始まりで、父や知り合いの人は60年前から
良く食べていたそうで、当時出前の人と顔見知りの人は「オマケ」があります。
参考までに
http://tjniigata.jp/gourmet/201811kousyu-hanten-kunsyou/
初代が福来亭で、その後はご姉弟で福来亭をお姉さん、杭州飯店を弟さんがされて、現在は福来亭が閉店し、杭州飯店は三代目も継がれてますね。
当時、オマケがあったのは初耳でした。教えていただきありがとうございます